心はどこにあるのでしょう?
中世に心は血液中にあると考えられていた時期があって、輸血をすると人格が混ざってしまうんじゃないかと、血を混ぜることに本気で反対する医学者もありました。現代ではそんな風に思う人はありませんが、ではいったい、心はどこにあるのでしょう。
これと似た命題に「命はどこに?」というのがあります。いずれも目で見て確認することはできません。心ある人を見ることはできても、心そのものは見えませんし、生きている人を見ることはできても、命そのものは見えません。人間は、通電しプログラムを起動すれば動き出すロボットと違って、肉体の組織をつなげて血液や体液を流すだけで動き始めることはできません。“命”って何なんでしょう。“心”って何なんでしょう。私たちの科学では解明できない、霊魂に連動する何かなんだろうとは思いますが、まだよくは分かっていません。ただ、命も心も、どこにあるかは分からなくても、誰もがそれらがあることは知っています。
児童心理治療施設で働きを覚えていた頃、被虐待児の心理治療に関する講演依頼を受けることが度々あって、目に見えない“心”を、受講者にどう説明したら分かっていただけるか考えた末に、大福に喩(たと)えてお話することを思いつきました。
これが、「とても分かりやすかった」と好評をいただくことが多かったので、シリーズ化し本ブログでも紹介することとします。
●生まれたばかりの心
お母さんのお腹の中で命を宿し、「オギャー!」と生まれたばかりの赤ちゃんの心は、薄皮の大福に喩えられます。その皮の薄さは、ロッテ「雪見だいふく」くらいに中が透けて見える薄さです。(尤も、心はアイスのように冷たくはありませんが…)
その薄皮の大福は、誕生の時に大変大きな試練から生涯をスタートさせます。それは、出産(分娩)です。
約9ヶ月間(平均40週)37℃の羊水の中でプカリプカリと平安に過ごしていた胎児が、ある日突然、子宮の収縮に襲われます。今まで経験したことのない強い締め付けに、命を宿して初めて、死ぬかもしれない恐怖を体験します。抗(あらが)い、苦し紛れに畳んでいた両脚をグーンと伸ばすと、頭の一部が産道を通って外に出ます。それから母親のいきみに助けられて完全に外に出ると、そこは乾いた場所で騒々しい音に満ち、目映いばかりの光に包まれた未知の世界。突如、肺呼吸に切り替わり、肺に大きく空気を吸い込んであらん限りの声で泣き始めます。きっと自分の声の大きさにも驚いて、あまりの環境の変化に赤ちゃんの心には恐怖が満ち満ちていると、そんな風に想像できます。
ただし、この恐怖はいずれ忘れ去られてしまうので、その後の人生に悪影響を及ぼすことは殆ど無いのですが、これを先ほどモデル化した大福に置き換えて考えるなら、薄皮のこころ大福の表面には無数の切り傷ができて、滲(にじ)み出た鮮血で真っ赤になり、今にも破れそうなギリギリの状態に置かれているといえます。このまま放置すれば、当然、肉体も心も死んでしまいますが、殆どの場合、産湯(うぶゆ)に浸からせてすぐにお母さんの胸元に寝かせてもらいますから、聞き慣れたお母さんの声や心音、呼吸や体温に癒やされ、どうにか心の出血は止まります。やがて心の表皮を覆う鮮血が乾いて瘡蓋(かさぶた)を形成し、その下に新たな心の表皮を再生します。このとき、表皮は以前より少しだけ分厚く再生され、所謂(いわゆる)“超回復”を起こすと考えられるのです。
●こころ大福と超回復
“超回復”とは、激しい筋力トレーニングの後に24時間~48時間筋肉をしっかりと休ませることによって、ボディービルダーなどが効率よく筋肉を増量させる方法を指す言葉ですが、これを皮膚に置き換えるならマメやタコがそれに相当します。私は数十年ギターを弾いていて、弦を押さえる左手指先の皮膚は超回復で分厚く硬くなっていますし、小学校の6年間を裸足教育で育ち、6年生次には分厚くなった足の裏で尖った小石の道を歩いてもさほど痛くはなかったことを想い起こします。
●心が強くなるということ
このように、生まれたばかりの薄皮の心の表皮は、傷付きと“超回復”のプロセスを繰り返しながら次第にその厚みを増していき、厚くなればなるほどに弾力を増して、やがて少々のことでは傷付かず変形しないゴムまりのような心へと成長していきます。これが、“心が強くなる”ということで、言い方を換えれば“ストレス耐性”や“プレッシャー耐性”が養われるということ。つまり、心の表皮に切り傷を与えるストレッサーやひび割れを与えるプレッシャーは、一概に悪者とばかりは言えず、心を強くする上で欠かせないファクター(要素)ともなっているのです。
ご自身を振り返えっていただくとお分かりいただけると思いますが、自分が『成長できたなぁ…』と感じられた直前には、必ずやストレスやプレッシャーが存在していて、それらを乗り越えた時にそんな風に感じられたのではなかったでしょうか。このようにストレスやプレッシャーなどの所謂(いわゆる)“苦難”は、心を鍛錬するものでもある訳です。キリスト教の聖書に「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む(新約/ローマの信徒への手紙5:3-4)」と書かれていることは、正にその通りだなぁと思わされます。
しかし、だからと闇雲に苦難を与えれば良いというものではありません。成長に応じた適度で適切な苦難であることが重要で、更には、“超回復”とセットになっていることが必須であることを忘れてはなりません。そうでなければ希望は生まれず、成長は望めないからです。
●心の表皮の超回復を促すもの
心の傷を瘡蓋(かさぶた)ごと覆い、“超回復”を促進する働きを果たすもの、それは周りの大人たち(主に母親)によって与えられる心理的抱擁です。古事記に倣(なら)うなら「羽くくみ(育みの語源)」。親鳥が雛鳥を翼で覆(おお)う行為に喩(たと)えられます。
こうした傷付きと超回復の繰り返しの中で、子どもの心には“耐性”が養われ、同時に“愛着”が育まれます。そして“愛着”はコミュニケーションの種となり、親以外の他者との間に信頼関係(ラポール)を育む基(もとい)を形成し、将来的には友情や恋愛へ発展していくこととなるのです。
私たち親の務めは、子どもが傷付かないようガードを固めて無菌状態を作り出すことではなく、成長に応じた適度で適切な傷付き(乗り越えられる苦難)が得られる環境を整え、外で傷付いて帰ってきた時には、しっかりと羽包(くく)んで心の表皮の傷を癒やす“超回復”を助けることなんだろうと思います。
我が子が傷付くことを恐れるのではなく、傷付いた時にはどう対処してやるかを考えて準備をし、いつでも対応できるようにしておく。それが、〈木の上に立って見守る〉と漢字が表意する〈親〉の役割である気がします。