(2)ネグレクト(放置虐待)のモデル
下の図は、こころ大福が小さくなったことを表しているのではなく、こころ大福の大きさはそのままに、枠(箱)が広過ぎることを表しています。箱に厚みは殆どなく、こころ大福の保護に役立っていないばかりか、箱の中に緩衝材はありません。物理的にも心理的にも父性・母性共にほぼ不在であることを表します。このため、子どもにはどこまでが自由(許容範囲)で、どこまでが枠(侵してはならない限界)か判然とせず、こころ大福は枠の内外を暴走して、自らの力で自らを傷付けてしまう状態に陥ります。
●広過ぎる枠
広過ぎる枠を具体的に言うなら、何時に起きても寝ても、何を食べても食べなくても、一日中ゲーム機で遊んでいようが寝ていようが、庇護者たる大人に何ら関心を払ってもらえない状態にあると言えます。当然、着た切り雀で何日も入浴しておらず不衛生で悪臭を放っていたり、医療的ネグレクトによって病気や怪我を負っても適切な医療を受けられていなかったり、教育的ネグレクトによって不登校が常態化していたりします。こうした環境下で生活する子どもは、激しい歯の齲蝕(うしょく=虫歯)に苦しんでいることも多く、歯科医師から児童相談所へ虐待通告される場合も珍しくありません。更には、栄養失調に陥っているケースもあります。
●ネグレクト(放置虐待)の症例
夏前の6月、小学校5年生の女の子が児童心理治療施設に入所してきました。
女の子を公営団地に残し、数週間に渡る母の不在が続いており、生活費も十分に渡されてはいませんでした。
ある日、女の子の家の近くのスーパーマーケットに納品している製パン会社から、警察に被害届が出されました。それは、同スーパーに納品後、決まって菓子パン幾つかが荷台から無くなっているというものでした。時間帯は朝。丁度、小学校の登校時間に当たります。通報を受けた警察が駐車場に張り込み、トラックの荷台に飛び乗る女の子を保護しました。女の子から事情を聴き、ネグレクト(放置虐待)が判明。警察から児童相談所に児童通告され、一時保護が開始されました。児童相談所は保護者に虐待を宣告した上で、児童心理治療施設への入所措置を決定しました。
女の子が受けていた虐待は、ネグレクトだけではありませんでした。女の子には盗食癖(とうしょくへき)の他に虚言癖(きょげんへき)があり、それらに腹を立てた母親に真夏のスチール倉庫に閉じ込められたり、半裸で真冬のベランダに閉め出されたり、食事抜きや暴言など心理的虐待、身体的虐待が日常化していました。思い通りにならない子育ての負のスパイラル(悪循環)に、母は次第に娘との距離を取るようになり、ネグレクトが常態化したと考えられました。
●渇く心
ネグレクトを受けてきた子どもの心は渇きます。まるで砂地のように…。注いでも注いでも際限なく愛情という名の水を求め続け、潤うことがありません。そのため、相手から好意を示されると、「見て見て」「聴いて」と自慢や同情を引く言葉をマシンガンのように喋り続け、自分への関心が薄らいだと見て取るや、虚言もいとわず注意を引き続けようとします。どうしてこのような心理状態に置かれるようになるのでしょう。
●こころ大福の受傷
ネグレクトは一人親家庭に多く、子どもに何の前触れも予告もなく突然に親が不在となり、時には「○○時に帰るからね」と告げられた約束も反故にされて、待てど暮らせど親は家に帰ってきません。こうした庇護者との別離は、大人が考える以上に子どもの心に強い不安や恐怖を与え、耐え難いストレスにこころ大福の表皮には無数の傷ができます。日が暮れるまでに親が帰って来なかったり、予め告げられていた時刻を過ぎても帰って来ない場合に、薄皮は限界を迎えて傷口が裂け破れてしまいます。遅れて帰ってきた母親(父親)は、「ごめんね」の一言でそそくさと台所に向かうよりも前に、子どもの破れた心に外科的な対応(じっくり時間を掛けて、子どもの心の痛み悲しみに寄り添い、破れた心を縫合する態度)をすることが優先されますが、そうしないことは血を流して倒れている我が子を、止血しないまま見て見ぬ振りをするのに等しいと言えます。
●子と親の認識の差
ネグレクトを繰り返す親は、子どもが笑っていれば『赦してくれている』『うちの子は強いから大丈夫』と自分に都合良く解釈し正当化することによってネグレクトを常習化しがちで、自身の行いが虐待であるとの認識に乏しいのが特徴です。
しかし、子どもは他に手段がないから笑っているに過ぎません。寂しさに鈍感な訳でも物わかりが良い訳でもなく、物わかりが良い振りをしなければ生きてこられなかった。だから、“「寂しい」という言葉や感情をタブー(禁句)として封印(抑圧)”し、ただただサバイバー(生存者)として生きてきたのです。むしろ、こうした子こそ作り笑顔の抑圧から解放し、泣かせてやる必要があります。親が帰宅したという物理的距離(接近)だけでは、放置の間に開いた心理的距離(断絶)を埋めることはできません。
●虚言とダブルバインド
放置によって、子どもは“親から大切にされていない”“自分はどうでもいい存在”、と自身の存在意味をそんな風に学習してしまいます。“愛される”とは“大切にされること”です。どんなに口で「愛しているよ」「あなたを大切に思っているよ」と言ってもらったところで、上述の扱いを受けていれば言われれば言われるほどにダブルバインド(二重拘束)を心に刻み込みます。つまり、“言葉とは心とは裏腹の本音を隠す建前に用いるもので、大人(人間)は平気で嘘をつく生き物だ”という学習を強化させてしまう訳です。ですから、親の言葉をストレートには受け取れず、発せられる言葉には“裏”があると考えてしまい、信じ切ることができません。ネグレクトの子に虚言癖が多いのはこのためで、子どもの虚言に怒りを露わにする親こそが、実は、子どもにとっての“虚言マスター”なのです。
親の言葉を信じられなければ、当然、親以外の他者の言葉も信じられません。その反面、心底信じられる対象を追い求めてもいて、治療者・支援者他、親とは異なる嘘偽りない対象との出会いが、その後の子どもの一生を左右すると言っても過言ではありません。少し大げさな言い方をすれば、治療者・支援者他にはそれだけの影響を与える者(人間代表)として子どもの前に立つ自覚と覚悟が求められます。
●ファンタジー
重症化すると、嘘が本当になってしまうことも起こります。空(から)の心を満たす空想が癖になり、いつしか空想を現実にあったこととして認識、記憶するようになります。これを、“ファンタジー(幻想)”と呼び、ファンタジーは事実ではありませんが、子どもの心に現実として記憶されるため、子どもには嘘をついている自覚がありません。故に、日常はもとよりカウンセリングでも、あり得ない事柄を次々と報告することになります。
例えば、「アイドルグループのファンクラブに所属していて、アイドルが乗るコンサート用のツアーバスに同乗させてもらい二泊で九州を一周してきた」といった類いの話は、私もよく聴かされました。このような時、聴き手(カウンセラー他)は語られる内容をあり得ないことと否定したり、尋問によって真偽を正すべきではありません。子どもの言葉を、子どもが感じている現実として受け留め関心は示しつつも、ファンタジーがそれ以上膨張しないように、敢えてあっさりとした受け答えをするよう心掛けます。
聴き手があまりに「凄い!凄い!」と反応すると、『もっと凄いことを言えば、もっと凄いって言ってもらえる!そうすればもっと話を聴いてもらえる!』と、『いいねっ!』欲しさにファンタジーに作話を加えるようになり、雪だるま式に肥大化する物語に本人にも何が現実(ファンタジー)で何が付加した作話か分からなくなります。つまり、聴き手の働きかけ方次第では、嘘に嘘を重ねる虚言に磨きをかけさせることとなり、話を聴けば聴くほどに状態を悪化させます。このため聴き手は、子どもの語る言葉に振り回されないよう留意しながら、話の内容に依(よ)らず存在そのものを大切にされる体験を与えて、ファンタジー症状に頼らずともよくなる方向へと導くことを目指します。
具体的には、お菓子作りや比較的短時間で達成・満足できる工作など、ノンバーバル(非言語的)なプレイセラピー(遊戯療法)の方が返って功を奏します。これは、空想という“イメージと言葉によるバーチャル”ではなく、物作りという“実体を伴う真のリアル”を通じて認められる体験を得ることを通して、言葉を超えた体験過程が空想よりも優位に置き換わるためと考えることができます。この際、作品づくりの一つとして箱庭療法や絵画療法を活用するのも良いかもしれません。(箱庭療法や絵画療法などのいわゆる投影法は、分析によって内面を探る手助けにもなるので一石二鳥です。)
こうした取り組みによって“実体を伴う真のリアル”の方が楽しい(生きている実感を強く感じられる=自分でも自分に『いいねっ!』)ことを分かってくると、徐々にファンタジーや虚言が減少していき、少しずつ自身のファンタジーについて「○○って思ってたけど、あれ?おかしいなぁ…」と、つじつまの合わなさを不思議がるようになっていきます。
とはいえ、虐待を受けてきた期間や心の傷の深さには個人差があるため、症状が改善するまでの心理治療期間は個々に異なります。数回のセッションで改善する子どももあれば、数年を要する子どももありますが、専門治療機関へ入院・入所の場合は、通院・通所に比べれば早期に改善します。
●心の傷とトラウマ
虐待によって傷口から餡(あん)が流出し続けるこころ大福は、これ以上流出しないよう傷口を塞ぐことに手一杯で、気持ちに全く余裕がありません。そして、庇護者による縫合などの手当(羽くくみ)を受けない傷口は、生傷のままいつまでもジクジクし続け、繰り返えされるマルトリートメントに、同じ傷口が何度も何度も閉じては開くことを繰り返します。結果、超回復を起こせない薄皮の状態が維持され、僅かなストレスやプレッシャーにもすぐに裂けて破れてしまい、耐性が養われません。
また、穴の開いた風船が膨らまないのと同様に、餡が露出し流出するこころ大福は、自らを膨らませて大きくなることもできません。年齢相応の心の成長や発達に遅れを来たし、幼い情緒が継続されます。それでもサバイバーを生きていかねばならない子どもは、同世代に自身の稚拙な心を隠そうと背伸びをし、大人びて見せる傾向を示しがちです。
背伸びに用いるのは、傷口から飛び出した餡(あん)と膿(うみ)の混合物が乾燥し重層化したものです。ぼた餅のように全体に纏(まと)って、一見すると瘡蓋(かさぶた)ようでいて傷口を覆ってはおらず、心の表皮に超回復をもたらすことがありません。その姿はさながら鎧のようで、鎧の隙間から覗く傷口からは絶えず新たな膿が流出しています。そして、何らかの理由で興奮し激高した場合には、傷口から膿を噴出させて目の前の対象を攻撃し、跳ね返った膿で更に自身の鎧を重層化させていきます。つまり、大福本体が成長することはなく、鎧ばかりを成長させるのです。
このように、「トラウマ」は単なる心の傷ではなく、傷に腐敗菌が繁殖してできる心の膿をいうのではないかという気がします。そしてこの膿がさまざまな症状を引き起こすことになる訳ですが、詳しい症状については後の章で触れることにします。
●大きく見せる理由
さて、大福の表層で重層化した膿餡(うみあん)の鎧によってぼた餅化したこころ大福は、外見は違っても同世代の大福と大きさの点ではほぼ相違ないか、それ以上に見えます。しかし、表を包む膿餡の奥に隠れる大福本体の大きさは幼少期のサイズから殆ど変わっておらず、さながら鎧を幾重にも重ね着した幼児のようです。しかし、幼い心に鎧は重過ぎます。この子たちはその重過ぎる鎧を纏い必死に立っているのです。
虐待によって成長を阻まれ、瑞々しくしなやかで弾力ある心の表皮を育むことができなかったこころ大福は、自身を守るために鎧を纏(まと)う他にサバイブ(生存)する術(すべ)が分かりません。それ故、大福が大福本体を他者に晒(さら)すことはなく、鎧を誇張し、真の姿を必死に隠します。“恥ずかしい”のも隠す理由の一つですが、それ以上に“弱みを見せると相手から支配されるのではないか”と、本能的な恐れの裏返しとして鎧を用い威嚇するなど強がって見せます。
しかし、心理治療等のセラピューティックな関わりの中で、対象他者(心理セラピスト他)との間に真の安心を得、愛着を再構築する過程において一枚また一枚と鎧を脱ぐことができるようになります。これを、心理的退行と呼びますが、この段階に辿り着けるようになるのも決して容易ではありません。
子どもたちは非常に用心深く、鎧の隙間から大福本体の姿が垣間見えたかにみえて、次の瞬間にはつっけんどんに隠してしまうなど、虐待の後遺症として他者を心底信頼することができません。そのため、天邪鬼(あまのじゃく)な対人パターンをとりがちで、どっちつかずのハッキリしない言動を示しますが、この子たちほど『愛してほしい』『愛したい』『信じて欲しい』『信じたい』無意識の欲求を強く秘める者は他になく、“そうしたいのに、怖くてできない”己の性(さが)に苦しむことになります。
●愛着障害=対象恒常性障礙?
被虐待児の医学診断名「愛着障害」は、「対象恒常性障礙」と呼び換えることができるように思います。「対象恒常性」は、乳幼児期に獲得する発達課題の一つで、母親を通じて“対象は変わらない”ことを体験的に学習し、心に“安心”の基盤を形成するものです。
ハイハイを始める探索期に初めて自らの意思と力で、お母さんから離れては戻るを繰り返し、何度やってもお母さんが変わらず存在することを確かめます。
これを基盤に次なるステップとして“優しいお母さんも厳しいお母さんも同一人物で、本質は変わらない”ことを学習していきます。
対象関係論創始者の一人、メラニー・クラインは、この両方の母の姿を“良い乳房(欲求を満たしてくれる)”と“悪い乳房(欲求を満たしてくれない)”に喩(たと)えて、それぞれの“部分対象関係”が一個の同じ母親に共存していることを理解し、そのどちらをも受け留められる“全体対象関係”へと成長することで「対象恒常性」が完成すると考えました。
しかしながら、「愛着障害」=「対象恒常性障礙」の子どもは、“部分対象関係”が優勢なままで、“良い乳房=白”と“悪い乳房=黒”が同一個体に共存する“全体対象関係”を受け容れることができません。
白は全心が白、黒は全心が黒として、白だと思っていた対象に微少なりとも黒い点を見つけると、途端に全心黒に反転させて認識してしまう特性を有します。つまり、白=味方が、一気に黒=敵に転じる訳ですが、こうした子どもには白(味方)でも黒(敵)でもない中間のグレー(敵でも味方でもない)が存在せず、対象(他者)を二元的にしか捉えられないのです。その認識パターンは正にオセロ盤のようで、心的防衛機制の“分裂”と強く結びついています。
対象恒常性=全体対象関係の形成が不十分な子どもは、“叱られる”あるいは“注意を受ける”“厳しい評価”など相手からの否定的な関わりに、それまでに積み上げてきた相手との白い(プラス)関係性が一気に黒い(マイナス)関係性に転じ、相手を味方ではない(あるいは敵)と認識します。
一方、対象恒常性=全体対象関係の形成が十分な子どもの場合には、“叱り”や“注意”“厳しい評価”などの否定的な関わりを受けても、相手との白い(プラス)関係性が一気に黒い(マイナス)関係性に転じ、味方ではなくなる(敵になる)ということがありません。それは否定的な関わりによって指摘された己の言動を修正さえすれば、再び相手との白い(プラス)関係性が維持される希望[仲直り]を信じることができるからに他なりません。
つまり、『相手が私のことを嫌いで存在や人格を否定しているのではなく、私のことを好きでいてくれて、その上で私の言動を否定し、修正・成長を願ってくれていると感覚的に理解できるということ』。対象との間に“揺らがない関係性(対象恒常性)”を結ぶ心が育まれ、養われているということです。言い方を換えれば、“相手を好きであり続ける力”“相手を信じ続けられる力”と言って良いのかもしれません。
この有る無しが、やがて“超自我”の働きに大きく影響を及ぼすことになるのですが、それについては後の章に譲ります。
●安心の破壊
以上の特性は、乳幼児期に対象恒常性の獲得に基づいて形成された“安心”が、虐待他によって破壊された「反応性愛着障害」の状態、或いは、生来の虐待環境からそもそも対象恒常性が未形成な「愛着形成障害」の状態にあることを示します。
いずれにせよ“安心”の基礎が揺らぐことは、建物に置き換えれば上物(うわもの)全体がグラグラと不安定であることを意味し、「愛着障害」=「対象恒常性障礙」は、正にそのような状態であると言ってよいでしょう。
そして、白から黒への容易なる反転は、対象を“不確か”にし、『いつ見放され、見捨てられるかもしれない』、或いは『いつ豹変し、攻撃されるかもしれない』不安や恐怖を、絶えず対象に投映し続けることになります。
これを、“見捨てられ不安”と呼び、少しでも『見放されたかも…』と思うと、増幅する思いに苦しんで、そうではないことを確かめずにはいられない衝動を誘発します。そしてその確認行動は非常に稚拙なアクティングアウト(行動化)となって表出され、本来庇護者であるべきところの虐待者の逆鱗に触れて、更なる虐待を招来する負のスパイラル(悪循環)に填(は)まりがちになります。
●治療者・支援者他との関係性への転移
子どもは、虐待環境下で身に付けた対人関係を、虐待者から分離・保護した後の医療・福祉支援者他との関係に“転移”、オーバーラップさせます。
親との間に愛着を結べなかったり、結んでいた愛着を虐待によって破壊された被虐待児は、対象(治療者および支援者、友人、恋愛対象他)との間に適切な心的距離が保てず、自分より強いと判断する者との間に依存的関係を構築しがちです。例えば、まだ出会って間がないのにもかかわらず、相手のパーソナルスペースに入り込んで親しげに急接近したりしますが、私はこれをクリンチ・パターンと呼んでいます。
クリンチとは、ボクシングの試合で相手から打ちのめされて立つのがやっとの状態で、両手を下げ相手に自分の体重を預けて寄りかかるように抱き着く行為を言います。距離を詰め、相手に有効打を打たせないようにして自身へのダメージを最小限に抑える、サバイバーならではの生きる知恵です。虐待環境下におけるこうした心的クリンチは、遠目には仲が良いようでありながら、実態は弱者の無意識的防衛戦略で、虐待者との長きに渡る関係性から、生き残るために身に付けた「強者に擦り寄るor媚びる」、“習性”とも呼べるものです。
反対に、自分より弱いと判断する者との間には支配的な関係を結び、虐待を連鎖する傾向を有します。
●中心葛藤と症状としての攻撃性
さて、虐待を受けてきた子どもが、心的クリンチを保ちながら反撃したかった真の相手は、言うまでもなく虐待加害者である父や母に他なりません。これが、子どもたちの抱える“中心葛藤”ですが、圧倒的な力の差を前に反撃を許されなかった子どもは、治療者・支援者を代替に感情を転移し、解離を誘発して瞬発的に治療者・支援者に攻撃の矛先を向けてしまうということがあります。子どもの中に眠るこうした攻撃性をいかに安全に解放できるかを考えることは、心理治療構造を組み立てる上での大変重要なポイントです。
また、子どもは治療者・支援者等との関係が親密になればなるほどに、内面に生じるアンビバレント(両価的=大好き・信じたいvs嫌い《好きになってはいけない》・不信《信じてはいけない》)な思いの綱引きに苦しむようになり、その苦しさから逃れるために、子どもの側から関係を壊す攻撃に転じてしまうこともあります。これは、治療者・支援者他が『本当に見捨てないか』を無意識に確かめようとするもので、意識では『こんなことしたくない』と思いながら、無意識(深層意識)に『そうせずにはいられない』アクティングアウト(行動化)として表出します。これは、“試し行動”[Testing]とも呼ばれますが、“転移感情”によって引き起こされる愛着障害症状の一つと言えるでしょう。
※医学的診断名については共通語として、「障害」をそのまま使用しています。