私が私であるということ 心理学では、この感覚を身に付けることを“自我同一性の形成”“自己同一性の形成”と呼び、『アイデンティティーの確立』と言ったりします。自分という人間が周り(家族、友人、所属など)にどういう価値をもつ人間かを自分なりに納得し(自己効力感・自己有用感・自己実現感・自己価値観)、自己を肯定的(自己肯定感・自尊心)に捉えられるようになることを言います。 ただし、『私は私、周りなんかどうでもいい』といった、独りよがりの利己的な“自己愛”とは異なります。
ヒトは、乳児期に自身が母とは別の個体であることを知り、幼児前期に自身が母とは別の意識を生きていることに気付き、学童期に集団の中で認められる喜びを得て、思春期に個への意識の高まりと共に他者を鏡にして自己を深く見つめるようになります。この過程で殆どの者がメランコリー(抑鬱)を経験し、己のふがいなさに『どうしてわたしは…』と幻滅を感じて、自己や自己の家庭、生い立ちに嫌悪感を抱いたりします。それは、理想像(自我理想)に、現実の自分が程遠いと感じるからなんですが、でも、それで良いのです。その葛藤があればこそ、“成りたい自分”が現実感を伴って、何をどう努力すれば少しでも理想に近付くことができるのか、具体的な目標が見えてもくるからです。そして、そのプロセスの中で何度も目標を設定し直すことを行っていきます。
友人の子に、フィギュアスケートでオリンピック選手になりたいと願う男の子がいました。しかし、小学生~大学生まで、どんなに努力しても2回転ジャンプまでしか跳べず、とうとうA級へ上がることができませんでした。だからといってフィギュアスケートが嫌いになることはなく、スケート靴を扱うスポーツ用品店に就職。かつて後輩だった選手の靴の刃を調整し支える技術者となることに、自身のアイデンティティーを見出したのです。そして今季北京オリンピックにおいて、鍵山優真選手の銀メダル獲得に技術者として貢献しました。
彼の目標はスケート演技技術の修練からスケート靴の調整技術の研鑽へと変わりましたが、かつて自身が選手だったことで、刃のどの部分をどの程度削ったら良いかイメージできるのは、彼ならではの強みなんだなぁ…と思わされたことでした。勿論、彼は、そんな自分が大好きです!
思春期は、葛藤と挫折の季節。青春に苦悩しながら自分自身と向き合うことを通して、『私が何を以て私であると云えるのか』 をしっかり握りしめ、人生の夏にたっぷり汗を掻いて、やがて実りの秋を迎える。それが人生というものなんでしょう。
ところが、こうした人生のステップをセオリー通りに踏みしめることのできない人々が増えています。「こころ大福理論」で紹介した被虐待児も然り、今や百数十万とも言われるニート・引き籠もりなど、若者だけでなく中高年の層にも拡がります。挫折から立ち直れず、社会から自身を隔絶する人達。孤独死の問題もその一つなのかもしれません。 比較的メカに強い若年層には、SNS等のバーチャル(仮想)空間で誰かと繋がっている者もありますが、そんな彼らでも多くがリアル(現実)には人と繋がろうとしません。というより、繋がれないのです。
なぜ、繋がれないのでしょう。 キーワードは、やはり、『自己肯定感(=自尊感情)の低さ』なのだろうと思います。
それぞれがそれぞれにさまざまな環境に暮らしているため、その誘因を一般化することはできませんが、一つには“集団主義”と“ストレス耐性の低さ”があろうと思います。
戦後の経済成長を支えた1970年代。一億総中流意識の流布により、長くお家主義を生きてきた日本人の集団意識に拍車が掛かります。逆を言えば、中流から外れることへの恐れを刺激したと言った方が良いのかもしれませんが、当時の国民意識では集団から外れることは恥にも等しいものでした。何を以て中流と云うのか人それぞれだったんだろうとは思いますが、「個」を抑圧した大人達の価値観に、一部の若者が学生運動や暴走族等で「反抗」を示していたように思います。
敗戦国となって戦勝国の子分と化した我が国の政府は、親分の顔色を覗わないでは何も決められず、大企業の経営者も自治体も政府の顔色を覗わずには何も決められない。社員をはじめとする労働者も上司の顔色を覗わないでは何も決められない。そうした相似形化したハイアラキー構造に、忖度集団意識が更に強化されていったように思います。
戦後の復興に高い目標を掲げて『同じであることを善しとする社会』意識が形成される一方で、同時に『同じではないもの』を『排除』或いは『隔離』する無意識が醸成されることになったのではないでしょうか。 戦後に育った大人達の無意識は、『同じであること』を価値基準として子どもたちに伝承され、多様化が叫ばれるようになった今も水面下で生き続けています。いじめ問題の本質は、実はこの辺りにあるのではないかという気もします。建前では多様化を善しとしながら、受け入れ難いという本音を隠す。今を生きる子どもたちは、そんな大人の“偽りの自己”と“真実の自己”その両方を見透かしているのかもしれません。 ある子は古き伝承に従い、ある子は新しき価値基準に生きようとする、その両者が混在するカオス(混沌)の時代。それが今なのだろうという気がしますが、それは共存ではなくマーブル模様として混ざり合うことのない両存と呼ぶべきなのかもしれません。
そんな混沌にはまり込んで動けなくなってしまっている人たち。周りの親しい者から自己肯定感を得られず、リアルには自分を尊いと思えない。その背景には、精神的な耐性が充分に養われていない幼く若い時期に心に深い傷を負ったり、思春期後期に自己価値を見出せずアデンティティを確立できなかったり、確立したアイデンティティを持って社会で働いていたはずなのに、ハラスメントや失業や倒産その他でアイデンティティを打ち砕かれたりといった体験を得ていることが考えられます。だから、繋がれないのです。 一言で言えば、『人が怖い』或いは『人が信じられない』ということなのでしょう。そしてこうした人たちの多くは、『自分がダメだから…』と自責の念を募らせて自己を否定しがちで、『自分嫌い(I’m not OK.)』 に陥っています。言い方を換えれば『自 分(の力)が信 じられない 』=『自信が無い 』『自分に価値があると思えない…』ということです。アイデンティティに照らすなら、『私が私であると言えない』或いは『私が解らない』だからそんな『自分を愛せない…』 状態と言い換えることができるのかもしれません。 ですからこうした人たちへの支援で大切なことは、現状があなたの責任によるのではないことを伝えつつ、自尊感情=自己肯定感を取り戻させてあげることにあります。勿論、その過程で支援者との人間関係を通じて、人を信じる心を取り戻すことも不可避です。
もう一度、人(支援者)を好きになり、好きな人(支援者)から「好き(肯定)」と言ってもらえる『自分を好きになる』こと。そうやって『私が私であるということ』の基礎を造り直していきます。 人間は、人の間に生きてこそ人間です。誰かに存在を認めてもらえなければ、本当の意味で『自分を好き(I’m OK.)』になることはできないのです。
園長
山下 学
(臨床心理士)
(相談支援専門員)