一言にカウンセリングと言っても、世の中には美容カウンセリングや保険カウンセリング、住まいのカウンセリングなどなど様々ありますが、ここでは心理カウンセリングに特化して書きます。
そもそもカウンセリングとは、クライエント(依頼者/カウンセリー)もしくはパティエント(患者)の抱える問題や悩みなどに、専門的な知識や技術を用いて行われる相談援助のことですが、その発祥は古くカトリック(キリスト)教会で行われていた「懺悔(ざんげ)」に起源があると言われます。
「懺悔」とは、罪の呵責(かしゃく)に苦しむ信徒が懺悔室に入って自らの罪を告解(こっかい)し悔い改めることを通して、神に代わって神父から「あなたの罪は赦(ゆる)された」と赦しの宣言をもらうことを云いますが、神父には告解された罪についての秘密を厳守する義務が課せられていました。何故なら、神父はあくまで神の代理として告解を聴いたのであって、語られた罪は神と当人しか知り得ないという前提に立っていたからです。そして、「懺悔」を通じて罪の呵責から解放された信徒は、心安らかに日常へと戻ることが出来ました。
“神の赦し”は神の御業(みわざ)であって科学的に解釈し得るものではありませんが、「懺悔」のプロセスの中に癒しの効果があることを発見した識者によって、「告解」はヨーロッパの精神科医療の現場で広く用いられるようになっていきました。やがて19世紀末から20世紀初頭にかけ、ジークムント・フロイト(独)による精神分析、イワン・パブロフ(露)による行動療法と後の認知行動療法、カール・ロジャース(米)による来談者中心療法へと発展し、科学的心理治療技法としての心理カウンセリングが確立されていきました。
(※カウンセリングという言葉自体は、20世紀初頭のアメリカにおける高校生への職業指導が起源とされます)
心理カウンセリングの基本は、「傾聴」です。加えてロジャースは心理カウンセラーのマインドとして「自己一致」「無条件の肯定的関心」「共感的理解」が重要であることを説きました。
有資格の心理カウンセラーは、臨床心理学に関する専門知識を有していますが、アドヴァイザーではありませんからカウンセリング場面において積極的に助言をすることはありません。また、評論家でもありませんからクライエントによって語られた内容に評価を返すこともしません。クライエントに自由な表現を促しつつ、クライエントの心を映す鏡役に徹し、クライエントが自身の力で心を整理し自己理解へと結びつけられるよう援助しながら、同時に肯定と共感を返すことを心掛けます。と、言葉で言うのは簡単ですが、主観と客観を同時に働かせながらクライエントに向き合う必要があり、淀みなくこれができるようになるためには訓練を要します。
心理カウンセリングでは、クライエントの抱える恐怖や不安などの問題に、クライエント自身が自分の新しい方向を目指して積極的に歩み出せる程度にまで、自分というものについて理解を達成できるようになることを目指しますが、その一般的なプロセスは以下のようになります。(あくまで一般的なケースで、特殊なケースは異なります)
(1)意味の回復
クライエントは抱える様々な問題によって、自身が存在している意味を見出せなくなっている場合が少なくありません。ただし、そのようなクライエントが心理カウンセリング(治療場面)に臨むというのは、まだ自分を諦めていない意思の表明と受け留めることができます。つまり、現在の自分の状況を「なんとかしたい」「変えたい」「変わりたい」、そう思っているということです。カウンセラーはそうしたクライエントに応えて、治療契約(約束)を結び、定期的に心理室を訪れカウンセラーと会い続けられるように支援します。そして、カウンセリングの主体はあくまでクライエントの側に置かれていることを実感(『自分の意思で自身の回復の為に行動している』)させながら、“意味の回復(クライエントがカウンセリングに来談する意味)”を図っていきます。簡単に言うなら、「(この日この場所に互いに)居てくれてありがとう!を繋ぐステージ」です。
(2)関係性の回復
多くのクライエントが社会生活および家庭生活の中で、ある対象との間に関係性の破綻を経験し、傷付いてカウンセリングに臨んでいます。具体的には虐待やいじめ、ハラスメントや事件・事故による被害など、信頼していた近しい者からの裏切りや見知らぬ誰かからの攻撃によって人を信じられなくなっていたり、大切な近しい人の喪失を経験していたり、他者と関係を繋ぐことに極端に臆病で、心理的に萎縮していることが少なくありません。だからこそ、現実生活場面から切り離した心理治療場面で、失われた関係性をカウンセラーと繋ぎ直すことを試みる訳です。ただし、そうなるためには心理室内での言動が厳に秘密として守られていることが絶対条件となります。
そうして安全が保たれた環境の下(もと)で、カウンセラーはクライエントに問題に関する感情を自由に表現するよう励ましていく訳ですが、言葉での表現が難しければ箱庭療法や絵画療法等を用いた表出を促したり、対象が子どもであれば遊戯療法(プレイセラピー)を用いて鬱積した感情の表出を促していきます。ただし、こうした療法を用いる場合、カウンセラー・セラピストには表現されたものを分析・解釈し、カウンセリングに効果的に用いることのできる力が求められます。
これらの手法を通してクライエントが無意識に抑圧している感情への気付きを与えたり、カウンセラーと体験過程を共にしながら信頼関係(ラポール)を形成していきます。バーバル(言語的)なカウンセリングであれノンバーバル(非言語的)なセラピーであれ、カウンセラーが気を付けなければならないのは、言葉やセラピーで表現される“(表面的な)問題”に振り回されることなく、背後にあるクライエントの感情にこそ応答していくということです。
勿論、殊更にクライエントの感情にばかり焦点を当ててコミットすれば良いというものではなく、“問題”を取り扱いながらも、さりげなく深いところで『気持ちは通じている』と感じさせることが肝になりますが、心理室という限定された場所と時間とカウンセラーが作り出す安全安心に支えられながら、クライエントは抑圧し溜め込んできた否定感情や陰性感情(恐れや悲しみや怒り、憎しみ)を次第に解放していけるようになります。
簡単に言うなら「あなたでなくちゃ!(同盟)を構築するステージ」です。
(3)現実検討力の回復
クライエントは否定感情、陰性感情をカウンセラーの前で吐露できるようになった自身に驚きと喜びを感じつつ、堰(せき)を切ったように感情の表出を繰り返すようになります。しかし、ある程度出し切った段階で、悪口(あっこう)を繰り返す自分に嫌悪を感じ始めるようにもなります。これは、心の健康度が上がってきていることを示すもので、自分視点からしか捉えられていなかった問題を別の角度からも捉え直してみようとする洞察の始まりを予兆するものでもあります。そして、自分なりに客観を試みつつ省みて、『自分の思い違いだったかも…』『私にも非があったかも…』だったり、相手の立場に身を置いて『そうするしかなかったのかも…』など、受け留め直そうとする努力や現実検討(現実吟味)の力を回復させていきます。ただし、頭(理屈)では解っても心(感情)では受け容れられないこともありますから、腑に落ちる(納得)までにはある程度の時間を要します。そうして少しずつ心の「霧が晴れてきた」感覚を自身のものとしていきます。カウンセラーはクライエントが他者視点で問題を捉えられるようになったことを誉めつつ、他にも異なる視点がないかクライエント自身が発見できるようにヒントを与えるなどして心の整理を援助していきます。
(4)感情と主体性の回復
精神的・心理的に強い支配を受け、長期に感情を抑圧してきたクライエントは、自分の人生に主体的に関わろうとする意欲に希薄で、自分が自分の人生の主人公であるという実感を伴っていない場合が少なくありません。また、自分以外の誰かに自分のことを決められ選択を与えられてこなかったことで、無意識に感情に蓋をすることが癖になっていたりします。他にも、不安や恐怖や悔しさから泣いたり怒ったりの陰性感情は表出できても、心の底から喜べなかったり感動の涙を流せなかったり、陽性感情の表出に消極的なケースもあります。そうしたクライエントがカウンセリング・セラピーのセッションを重ねる中で、凍結させていた感情を徐々に溶解し賦活(ふかつ)化させ、主人公を取り戻していく過程を歩んでいきます。来談当初にはブラックホールの如くに漆黒だった被虐待の子の瞳に、光が戻ってくるのもこの時期です。心の瑞々しさが、瞳にも水々しさを与えるのでしょう。簡単に言えば「自分のこと、自分で決めて良いかなぁ…」と、自身の成長への意欲を温め、自己決定を試行し始めるステージと言えるでしょう。カウンセラーは支持的に関わりながらクライエントの自己肯定感、自尊感情を支え、前向きに生きる自信を与えていきます。その際、たとえ自己決定によって試行したことがクライエントに“失敗”と感じられる結果を招いたとしても、自己決断できたことや部分的にでも成功できたことを示しながら、成長への意欲を下支えしていきます。
(5)終結
以上の段階を経て心に“大丈夫”を積み上げ、独りで歩み出す力を蓄えて終結を迎えます。
ところで、心理カウンセリングは冬の海に喩えられるように思いますが、そのイメージを以下に記(しる)します。
クライエントは、荒れ狂う冬の海の沖合で溺れかけている人です。海岸に戻りたいけど自分の力だけでは戻ることができません。そして溺れそうになり、助けを求めます。
最初にクライエントの叫び声を聞き付けて海岸にやってきた専門家がいました。その人は沖合で溺れかけているクライエントに呼び掛け、質問します。
専門家「あなたは、どうしてそんな深いところにまで行ってしまったんですか?」
クライエント「自分でもどうしてこうなってしまったのか、わかりません」
専門家「あなたは本当は解っているはず…」
クライエント「いいえ、わかりません…」
専門家「あなたはきっと過去に酷(ひど)く辛(つら)い体験をして、人が信じられず、何もかも独りで抱え込んでしまったんじゃないですか?」
クライエント「そうかもしれないし、そうではないのかもしれません。自分でもよくわからないんです…。」
専門家「まずは原因を探りましょう…解りました。あなたはきっと○○性○○ですね。だから、溺れそうになっているんです。そうでなければ○○性○○かもしれません。」
クライエント「難しいことを言われても解りません。それより助けてください。」
専門家「私はあなたが良くない状態であることは誰よりもよく解ります。でも、どうするかはあなた次第。」
最初の専門家はコメンテーター(評論家)と呼ばれる人でした。やたらと詳しく解説するので最初のうちは信頼できそうですが、結局のところコメンテーターの自己満足を満たすだけの時間を経過するばかりで、クライエントには何の助けにもなりませんでした。クライエントは、マニアの研修が受けたくて冬の海に溺れた訳ではありません。
次に冬の海岸にやってきた専門家は、溺れそうなクライエントを見て、長いロープの付いた救命浮き輪を投げました。浮き輪を手にしたクライエントは、専門家にロープを引っ張ってもらい海岸へと戻ることが出来ました。
ところが、暫くするとクライエントは再び沖合で溺れそうになっていました。以前の経験からクライエントは、同じように助けを呼びます。声を聞きつけて再び同じ専門家が駆けつけました。前と同じに長いロープの付いた救命浮き輪をクライエントに向かって投げました。浮き輪はクライエントの手元に届きましたが、同じに見えた浮き輪が今回は小さ過ぎて、クライエントは沈みそうになりました。
そこで専門家は別の大きな救命浮き輪を投げました。しかし、今度は浮き輪が太過ぎて掴まることすらできず、クライエントは沈みそうになりました。
やってきた専門家は、アドヴァイザー(助言者)と呼ばれる人でした。
一度目にアドヴァイザーが投げたアドヴァイスは、クライエントが抱き着くのに丁度良く、ロープを手繰(たぐ)ってもらい海岸へと戻ることができました。しかし、ロープを引いてもらったことで自身で泳ぎ方を覚えなかったため、いつの間にか再び冬の海に足を踏み入れ、気が付いた時には沖合に流されてしまっていました。
二度目にアドヴァイザーが投げたアドヴァイスは、前回は助けに充分でしたが、再度溺れそうになっているクライエントには不充分で役に立ちませんでした。
三度目にアドヴァイザーが投げたアドヴァイスは、クライエントには到底取り組める内容ではなく、困難で諦めざるを得ませんでした。
さて、最後に海岸に登場するのはカウンセラーです。
カウンセラーは海岸からクライエントに声を掛けながら海へ入り、少しずつクライエントとの距離を縮めていきました。冬の海に浸かり、カウンセラーはこの海がどんなに冷たいかを知ります。
カウンセラー「あなたは、こんなにも冷たい海で頑張っていたんですね…。凍えてしまいそう。肌を刺す海水が痛いけど、大丈夫ですか?」
クライエント「心配してくれて、ありがとう。でも、私はこの冷たさに麻痺してしまってて…、だけど、もう少し頑張れると思います…」
カウンセラー「あぁ…。足が届かなくなってきた…。あなたは、こんなにも深い海で耐えていたんですね、もうすぐそばまで行けそう…だから諦めないで待っていて…」
クライエント「海にまで入ってもらって、ごめんなさい。でも、私の辛さを解ってくれてありがとう。あなたがそばに来るまで頑張ろうって思えます。」
そして、カウンセラーはクライエントの傍らに泳ぎ着きます。
カウンセラー「お願いがあります。私にしがみつかないでください。二人とも溺れてしまうと助けられませんから。少しずつ余分な力の抜き方を覚えながら自分のペースで泳ぐことを心掛けてください。ゆっくりでかまいません。一緒に海岸まで泳ぎましょう。溺れそうになった時には私が支えます。」
クライエント「ゆっくりでいいんですね。ありがとう。」
カウンセラーはクライエントがカウンセラーに依存し過ぎないようコントロールしながらカウンセリングを導いていきます。それは、クライエントの人生の主人公(主体)がクライエント自身であることを無意識(潜在意識)に植え付けようとする試みでもあるんですが、何故そうするのかというとクライエントの持つ共依存パターンにカウンセラーが呑み込まれないようにするためです。
クライエントにとって、カウンセラーほど自分のことを解ってくれる人は他にいません。ですがそれは、カウンセラーがある意味分身としてクライエントの思考を導いてきた訳ですから、当然といえば当然です。ですから心理室(カウンセリングルーム=“非現実”)を一歩出て、自分のことを解ってくれない人が大多数の“現実”に独り戻らなければならないクライエントが、誰よりも解ってくれるカウンセラーが“現実”にもいて欲しいと願ったとしても、それもまた自然な欲求であろうと思います。しかし、カウンセラーはクライエントの“現実”の登場人物になってはなりません。何故なら、カウンセラーはクライエントの秘密を知りすぎていて、“現実”に関われば関わるほどクライエントの脅威や不安にも成り得るからです。具体的には、カウンセラーが私だけのカウンセラーでなくなる不安であったり、カウンセラーとの関係にほんの少し変化が生じた場合にも『自分の秘密が暴露されてしまうのではないか』と一方的に脅威に感じてしまう可能性のあることを想定しておく必要があるということです。
クライエントの中に湧き起こるこうした感情を、専門的には「転移感情」と呼びます。転移感情には「陽性転移感情」と「陰性転移感情」とがあり、カウンセラーの側でコントロールを失った場合に、クライエントは思い通りにならないカウンセラーにアクティングアウト(行動化)を強め、自殺をほのめかすようになったり、自殺企図をしてみせるなどカウンセラーを振り回すようになることがあります。特に異性間におけるカウンセリングの場合に、「転移」を考慮されないままにカウンセリングをスタートすることは危険であると言わざるを得ません。カウンセラーはカウンセリングを進める過程でクライエントの中に「転移感情」が蠢(うごめ)くことを予測・想定した上で、「転移」をアクティングアウトに繋げることなく治療に活用し終結へと導くテクニックが求められます。
訓練を受けたカウンセラーであれば、カウンセリングの過程で生じる「転移」や「逆転移」に、こうした危険のあることを熟知していますから容易(たやす)く呑み込まれてしまうことはないと思いますが、先述したコメンテーターやアドヴァイザーのように理解の不十分な“にわかカウンセラー”の場合に、しばしば共倒れしてしまったという話を耳にすることがあります。
話を元に戻しましょう。
さて、気が付くといつの間にか波は穏やかになっていて、二人は海岸の砂浜へと上陸します。しかし、カウンセラーの役割はここまで。カウンセラーは必要に応じて海岸でソーシャルワーカーへとバトンタッチすることもありますが、こうしてクライエントは海岸から自身の暮らす街(“現実”)へと独りで戻っていきます。
以上に記(しる)したことは、あくまでもイメージです。ですから、実際のカウンセリングで上記のやり取りが交わされることはありませんが、カウンセラーは、こうして“現実”から隔絶された心理室(“非現実”)の中でクライエントの精神世界を共に泳ぎます。そして、先述したように心理室の中で語られること、行われることは、クライエントとカウンセラー(セラピスト)二人だけの秘密です。決して外に持ち出されることはありません。ですから、心理室の中でクライエントは叫んだって、怒ったって、泣きわめいたってかまいません。自由に感情を表出できることが重要だからです。もしも、心理室の中に不自由があるとするなら、それは“時間”と“場所”に枠(制約)があるということですが、この枠はクライエントとカウンセラーの双方を守る枠でもあり、原則逸脱することはできません。設定された枠の範囲内での自由が保障されることによって、カウンセリングは心理治療構造として機能し得るのです。
カウンセリングは、過去の痛みや苦しみを追体験する過程でもあります。それ故に、クライエントとカウンセラーとの間にはしっかりとした信頼関係が結ばれていることが必須です。そうして、クライエントが過去に独りでは乗り越えられなかった“問題”を、カウンセラーと二人で分かち合いながら乗り越えていきます。
以上に記(しる)した心理治療過程を通じて、クライエントは心理的・精神的に過去の自分を破壊して死に、新しい自分を創造して生まれ直す「破壊と創造/死と再生」を体験しながら、レベルに応じ、思考変容、行動変容、人格変容を起こし成長の果実を手にすることになるのです。